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浅羽通明氏「何もせんほうがいい」政治思想の分析




本日の曲

(文字をクリックすると曲が聴け
ます)

高橋由美子 
コートダジュールで逢いましょう


高橋由美子
そんなのムリ!


昔、高橋由美子のラジオ番組を
聴いていたことがあります。

理髪店をされているお父さんや
家族のエピソードなどプライベ
ートなお話がとてもおもしろか
ったです。アイドル冬の時代に
親衛隊文化の灯火を継続するに
あたり多大な功績があった人物
であり、もっと評価されてもよ
い人だと思います。

さて本日のテーマです。

積極的保守思想と消極的保守思
想という分類項目から類推する
に、たとえば浅羽通明氏の唱え
る「何もせんほうがいい」保守
思想
は一体どちらに帰属するの
でしょうか。一見したところ、
いかにもヤル気のない、萎縮し
た、マイナス指向の語感的イメ
ージがつきまとい後者に分類さ
れるかに見える。しかし私個人
の解釈によれば消極的保守思想
には分類されない。なぜか。

自発的・意志的に無為を選択す
るという政治的決断には、ある
種の主体的積極性と歴史形成力
としての戦略論的ベクトルが含
まれてくる。状況の推移、カオ
ス的生々流転が付け焼刃として
の浅知恵的作為にかすめとられ
今よりさらに悲惨な破局の連鎖
を引き起こしかねない時に「現
状を維持せよ。今の状態でとど
まれ」という静止命令を下し、
事態が沈静化するまで戦略論的
時間稼ぎをするというストッパ
ーとしての役割を担う保守思想

と位置ずけることができるから
です。なし崩し的に、何もでき
ない故に何もしなかったのでは
決してない。むしろ「何もせん
ほうがいい」無為の状態を維持
することには意志的で禁欲的な
忍耐力がいる。案外難しいかも
知れない。

浅羽通明氏の「何もせんほうが
いい」政治思想が提起されたの
は、3.11の地震が起きて、福島
原発の問題で世間が騒然として
いた最中であり、反原発を唱え
る(例えば山本太郎的)左翼への
異論という側面を含んでいた。

浅羽通明氏の言及は満州事変か
ら太平洋戦争へと到る昭和史に
及び陸軍における急進的政治軍
人たちの台頭が「何かをせねば
ならない。このままではいけな
い」と誠実な義憤からとは言え
結果として失敗の連鎖を招いた
歴史上の悲劇を踏まえての発言
だった。浅羽通明氏は書いてな
いが、226事件における昭和天
皇の決断や日本のケインズとし
て最近では経済評論家の三橋貴
明なども高く評価している高橋
是清の経済政策と軍部との葛藤
などもひよっとしたら念頭にあ
ったかも知れない。

「流行神」という極小のメディ
アで発信されてはいたものの、
保守論談としては極めて密度の
濃い考察というのが私の感想。

孫子、クラウゼビッツ、毛澤東
の持久戦論、レジス・ドブレ、
ボーゲンザップ、ワイリー准将
へといたる戦略論戦術論の名著
が必ず説いておりますように、
戦略には、攻撃と防御、前進と
停止、ゲリラ型消耗戦と撤退期
が必ずあるように確かに「なん
もせんほうがいい」「何かをし
てはかえっていけない」時期と
いうのは必ず存在する。

問題なのはその静止命令をどの
時点で下すのか、どの時点まで
維持するのか、そして「何もせ
んほうがいい」状況が「何とか
せねばならぬ」作戦状況へと変
化した場合、作戦変更の時期は
一体いつなのか、「静止状態」
によって獲得された時間差利益
正確に言えば「後発者利益の効
(渦中の混乱した状況下でな
く、だいぶいろんなことが解っ
た段階で、冷静緻密な判断と共
に時間進行に伴う先行者たちの
試行錯誤モデルから最小労力・
最短時間で多く学ぶことができ
る)
」を最大値として観測でき
る計測地点とは一体いつなのか
正確に読み解く必要がある。静
止命令を解除するのはその時点
であり、そこを読み違えないこ
とが最も肝要といえるのであり
状況の推移に応じて作戦計画を
随時変更することは変節でもな
ければ転向でもない当然かつあ
たりまえのことであります


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浅羽通明氏の死生観



芦奈野ひとしさんの名作
「ヨコハマ買い出し紀行」
の主人公アルファさんに魅せ
られた時期がありました。
ドラマの随所に出てくるゴン
チチの曲の数々もすばらしい
(文字をクリックすると曲が聴
けます)

ヨコハマ買い出し紀行OVAOP

さて本題へ

「自死」という生き方を選択し
特に深刻な問題からではなく人
生の盛りが尽きる以前、肉体的
衰えがやって来て「自死」によ
る選択枝すらも不可能となる時
期を迎えることなく、自ら意志
的かつ主体的選択のもと自殺を
決行した論理学・科学哲学者の
須原一秀
について浅羽通明氏が
きわめて優れた解説を書いてい
ました。

「哲学的プロジェクトとしての
自殺」は、体中キューブだらけ
になり苦しみながら死ぬ圧倒的
大多数者という現実に対し、深
刻な苦悩や不幸からではなく自
ら選択的な死がありうることを
示した哲学的死への認識とその
思い切った断行という点で須原
一秀氏の思想が重大かつ今日的
な問題提起を投げかけているの
は事実でしょう。

浅羽通明氏が、単なるサブカル
ウォッチャーにとどまらず本格
的な教養人・思想家に準ずる鋭
利な分析能力の持ち主であるこ
とは認めますし(プロの政治学者
であり法律家でもある)氏の論説
とりわけ保守思想が、中島岳志
氏と並び触媒的に見ましても私
にとって興味深いものであるこ
とは事実です。(もう20年以上
前から面識があります。という
ことは氏のものすごく密度の濃
い極私的アジテーションペーパ
ー「流行神」につきシーラカン
スのごとき最古層の生き残り読
者でもあります)

しかし、神を深く信じ、見神者
として社会的実践に加わってい
る私の立場と、アルベール・カ
ミュの実存主義(とりわけ「ペス
ト」など)に類似する地点からサ
ブカル解説をはじめとする思想
構築をされている浅羽通明氏

び須原一秀とでは明白な論点の
相違が存するのであります。

「身体」を自己の私有物とは決
して考えず、神的な視点をも加
味した「公的身体=神から一時
的に与えられた借りもの」とら
え、人間を神の計画的歴史形成
や「見えざる手」の導きに依拠
るところの生成途上の霊的存在
者と認識する私の観点
からする
ならば「自死」はごく僅かな例
外を除き、公的身体への冒瀆行
為であり決して許されてはなら
ないことであります。信仰を有
する者と積極的な信仰を持たな
い者との神学論争めいた相違点
が出てこざるをえない。価値観
の違いというものであります。

「自死という生き方:覚悟して
逝った哲学者」(遺稿集)
双葉社2008年1月

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